取り扱い商品は日野椀や合薬
日野町は滋賀県南東部にあり、江戸時代には近江商人の発祥の地として栄えました。滋賀を代表する近江商人の出身地には五箇荘や近江八幡、高島などがありますが日野商人は中でも代表的な存在といえます。取り扱った商品は初期には当地で製作し漆を塗った「日野椀」。使い勝手が良く安価であったため関東地方にも広まりました。中期には正野玄三により「萬病感應丸(まんびょうかんのうがん)」と命名された合薬が創り出され、さまざまな病気に効果があると評判になりました。軽くてかさばらず利幅が大きかったため、やがて日野椀に代わる主力商品となりました。
近代的な経営手法
資金を蓄えた日野商人は東北・関東地方を中心に酒・醤油・味噌などの醸造業を興します。醸造業は多額の初期投資資金が必要になるため、日野商人はほかの商人と資本金を出し合って共同で経営する「乗合(のりあい)商い」を好んで用いました。出資額のみの有限責任を負う近代的な考え方で、リスク分散の観点から優れた方式です。
また日野商人は各地の出店を正しく管理するため「店卸帳(たなおろしちょう)」と呼ばれる帳簿を用いて決算を行いました。この決算方法は現在の複式簿記とほぼ同様のきわめて先進的なものでした。
組合組織で助け合う
日野商人は「日野大当番仲間」と呼ばれる商人組合を組織しました。これは会費制で誰でも加入でき、大きな特典が二つありました。一つは定宿の利用。宿場の特定の旅籠(はたご)と契約して、鑑札を持参すれば宿泊や休憩に利用できるようにしました。商品の託送ができたり、組合員同士で情報交換ができたりする場所として重宝されました。もう一つは運送業者の利用です。飛脚業者や船問屋などと契約して、加入者が提携料金で利用でき、荷物紛失時の補償などを取り決めていました。このような取り組みはほかの近江商人には見られなかった特長です。
感謝の気持ちと社会貢献
近江商人として最大の資産を残したといわれる中井源左衛門家の初代光武は遺訓を残しています。「金持商人一枚起請文(きしょうもん)」と呼ばれ、後世の近江商人に大きな影響を与えました。この中で光武は、金持ちになるには酒宴遊興におぼれることなく、長寿を心がけ、倹約第一に商いに励めば成功すると説いています。加えて、家業が永続していくには「陰徳善事(いんとくぜんじ)」を行うことが最も大切だと強調しています。商いで得た利益で贅沢な暮らしをするのではなく、世間への感謝の気持ちを忘れず社会に還元していくことで、子孫にもめぐまれ、家が代々まで繁盛していくと考えたのです。
「三方よし」
日野商人は地域の神社仏閣に造営費などを惜しみなく寄進したほか、飢饉・凶作・火事などの災害時には、被災者や困窮者に金銭や米、生活用品などを提供しました。幕末の混乱期に各地で打ちこわしという暴動が起こりましたが、日野商人の出店だけは打ちこわしを免れたというエピソードがいくつも語り継がれています。このことは陰徳善事の精神に基づいて展開された日野商人の商いが、地域の人々に高く評価されていたことを示しています。近江商人の経営方針はのちに「三方よし」と呼ばれるようになり、自分よし、相手よし、世間よしの精神は現代の多くの会社の社是・社訓に引き継がれています。